沿革物語

3. AWSとの出会いと独自プロダクト「Wakame」の開発

2009年。世間ではクラウドサービスが注目され始め、日本企業はこぞってクラウド開発に関心を示すようになっていた。あくしゅにも何件かクラウド技術開発の共同開発の話が舞い込むようになり、風向きが変わってきた。なかには出資を持ち掛けてきた企業もあった。そのきっかけとなり、その後あくしゅの方向性に大きな影響を与えたのがAWS(アマゾン・ウェブ・サービスクラウド。当時の名称はAmazon EC2、以下AWSと表記)である。

AWSがあくしゅに興味を持ってくれたきっかけは、オートスケールエンジンの開発だ。サーバーの負荷に応じて、自動的にクラウドサーバーの台数を増減させるオートスケールの機能は、今でこそ一般的なソリューションとなったが、2009年当時はまだまだ目新しかった。

WebAPIを使って自動的にサーバーの台数を増減できるオートスケールは省人化、無人化にもなり、おもしろいと思い、あくしゅ自身で作り発表したら、思いのほかバズることに。以来3か月間、毎日オフィスに人が訪れてくれるようになり、そのうちのひとつにAWSがあった。

当時のAWSにはオートスケール機能が備わっておらず、データセンターで作業をアナログで行っていたのだ。当時、あくしゅは従業員7名程度の小さな企業であったが、AWSを使ったオートスケールエンジンの研究・開発に踏み切ることになる。その結果誕生したのが、あくしゅの初期製品「Wakame」だ。当時、Wakameの他にWebAPIを使ってオートスケールができるソリューションを制作している会社はなく、大きな注目を集めることになった。

このAWSとの出会いをきっかけに、山崎はAWSとともに営業活動を展開するようになる。今では信じられないことだが、当時はAWSの営業担当はたった一人だった。このとき、AWSからパートナープログラムに誘われたが、山崎は断っている。「理由は今でもよくわからない」と本人は語る。ただ、この時代山崎たちはAWSの競合になるようなシステムをつくることに必死で、AWSと一緒に営業を行うパートナープログラムにはとても集中できない状態であった。パートナープログラムを断った判断は果たして正しかったのか、誰にもわからない。ただ、この判断があったからこそオートスケール製品Wakameができたとも言えるだろう。

Wakameをリリースした翌年となる2010年の1月には、東芝株式会社(以下、東芝)から声がかかり、デジタル家電のファームウエア配信に使ってもらえることになる。提供価格は0円。しかし、手ごたえは確かにあった。

Wakameはオープンソースプロダクトだ。山崎には勝算があった。というのも、すべてをさらけ出し、ソースコードを自由に使えることがオープンソースの魅力ではあるが、一般の人には理解が難しい。せっかくソースコードがあっても、肝心の知識がなければ何にもならない。それならば知見がある山崎がサポートしていこうと考えたのだ。山崎の読み通り、あくしゅの知識・技術を頼って、多くの企業から依頼の話がきた。

人との縁にも恵まれ「AWSに強い会社」「クラウドに強い会社」という印象が強まったのもWakameという製品のおかげである。また、Wakame発表会の場で声をかけてきて、後にあくしゅに入社することになったブルースは、多くの外国人を斡旋してくれることになる。これもWakameがもたらしてくれたのかも知れない。

一方で、計算外のアクシデントもあった。サーバーの台数を自動的に増減できるオートスケールに惹かれる企業は、予算に余裕がないことが多い。サーバーを増やしていくよりも、減らすことを考えているのだ。さほど利益にならないことがわかれば、力を入れる必要もないと山崎は判断することに。部分的にストップをかけていくのがベストプラクティスと考えたのだ。

Wakameの売れ行きは決して芳しくなかったが、AWSへの知見があったことから、AWS関連の仕事が絶えず舞い込んできていた。山崎の古巣であるNTTデータから受託し、クラウドの研究を進めていたのもこの頃だ。

この期間中の大きなプロジェクトとしてはもうひとつ、小川が担当した国際航業株式会社(以下、国際航業)とカドカワ株式会社(以下、カドカワ)との協業にある。地理空間情報技術のフロントランナーであり、飛行機を飛ばして測量をしている国際航業。その国際航業とタッグを組んだカドカワは、国際航業が持つ地図情報をマーケティング広告として提供していたのだ。このプロジェクトの前より、Webサイト制作でカドカワとの接点を持っていたあくしゅは、このグループに入れてもらう形で、新たなサービスづくりを展開することになる。プロジェクト自体は順調で、約2年間続くことになった。

山崎がオープンソースやWakameの開発、販売に奔走し、小川は企業のサービスのプラットフォームづくりや商用目的のSNSの運営などの受注仕事に邁進していた。2人はそれぞれの道であくしゅへの貢献をしていたのだ。